色黒大阪人事が気ままにつぶやくブログ

色黒で大阪人で人事な僕がなんかつぶやきます。

ベンチャーで成長できる人は道端のゴミを拾う人

なんかそれっぽいタイトルで書き始めてみました。
それっぽく書けるかは神のみぞ知るところです。ちなみにものすごくシンプルな記事です。5分で読めます。読んでね。

ベンチャーの仕事は決まりが無い

ベンチャーの仕事って本当に不完全というか、変化に富んだもので、定型業務は限られています。
僕の場合も決まっているのは朝の30分と夜の15分だけ。
それ以外は事業の運営をしたり、採用関連の仕事をしたりと様々ですが、「これをこういう方法でやりましょう」という決まりはほぼありません。
これを裁量と呼ぶのかは謎ですが、まあ自由にやらせてもらっています。

チーム内の役割も決まりが無い

この「不完全」で「決まりのない」感じは、もう少し大きな目で見たときも同じです。
つまり、チーム内での役割分担もすごくふわっとしているということです。
どこまでが営業の仕事なのか、どこからがディレクターの仕事なのか、経験知である程度察するようになるものの、明確な線引きはあまりされていません。

結果生まれるグレーゾーンこそ旨味

その結果として、「誰の仕事かよく分からないもの」が生まれます。

産声は上げません。すごく「しれっと」生まれます。
その子は大体、「やらないといけないわけではない」けども「やった方がいいもの」です。
ベンチャー(だけじゃないかもしれないけど)で成長できる人は、隙間の時間をうまく見つけて、この「誰の仕事かよく分からないもの」を拾って「自分の仕事」にする能力があります。
先述の通り、「誰の仕事かよく分からない」けれども「やった方がいいもの」なので、そこそこ経験値を貯めることが出来ますし、

「隙間の時間」で取り組むのが基本になってくるので、「タイムマネジメント」や「タスクマネジメント」も同時に意識することが出来るという一石二鳥いや一石三鳥なんですよね。

 

「じゃあみんなやるやろ」


そう。そのはず。
でも、「隙間の時間に頑張る」って意外と面倒なんですよね。
だって、別に自分がやらないといけない訳じゃないし。
放っておいても誰かやってくれるし。
あ、この感覚って道端のゴミを放置する感覚に似ているな。
ということでタイトルのようになったわけです。

まとめ

道端のゴミを拾うのと同じで

・確実に誰かがやるべきこと
・でも、必ずしも自分がやらないといけないわけじゃないこと
・しかし、必ず人のためになること

これをいかに「隙間の時間」にやるか、が成長するキーになるのではないでしょうか。

書いている僕自身最近「隙間の時間」を有効活用出来ていない感覚があるので、自戒のためにも文字にしてみたのでした。
おしまい。

文武両道ではなく、文武一道ではないか。

夏ですね。

野球が大好きな僕にとっては甲子園のシーズンでもあり、1年の醍醐味が詰まった季節です。

そんな中、ある甲子園出場校の監督さんが

「私は文武両道が好きじゃない」という主旨の発言をして叩かれているのを見ました。

言い方に棘のある記事だったので炎上するのはまあ頷けるのですが、根本の考え方は僕も同じだったので、少し記事を書こうかと思います。

そもそも文武って分かれているのか

文武両道。

学校生活とかだと、部活も勉強も頑張っている、というニュアンスでよく使われるイメージです。優等生のイメージですかね。

僕自身、そこそこどちらも出来たので、近所のおばちゃん(大阪なので)たちによく「文武両道で偉いね」と言っていただいた記憶があります。ありがたい。

僕の場合は「武」は野球だったわけですが、そもそも文武、勉強と部活って全く別のものなのでしょうか。

僕の考え方は、文武は同じ1つの流れの中の違う要素に過ぎない、というものです。

もちろん、野球の練習しているだけでテストの点数があがるという意味ではありませんが、ざっくり言えば

「部活を一生懸命やるからこそ、勉強も一生懸命やるし、

勉強を一生懸命やるからこそ、部活を一生懸命できる」

という感じでしょうか。

学校生活という一連の流れの中に「文武」がある

部活の朝練を6時からやって、授業があって、放課後の練習がある。

その中には文化祭や委員会などそれ以外の学校生活の要素もありますが、それら全部を含めて一連の流れなんですよね。

流れ、ということはどこかで手を抜くとその流れは緩やかになったり、せき止められたりするわけで、

勉強で手を抜くことは大好きな部活で手を抜くのと同じ意味になるんですよね。

たとえば勉強で手を抜いていると、部活の最中にふと

「あ、明日の数学のテストやばい。」とか

「このままの成績だと大学いけない。」とかを考えてしまうわけです。

こう考えてしまう時点で部活に集中できていないですし、結果が出るわけもありません。

部活以外の要素(=勉強)に不安が無いからこそ、部活に一生懸命打ち込める。

勉強を一生懸命やっているからこそ、部活に夢中になれるんですよね。

これは「両道」などという別の道ではなくて、

学校生活という「一道」の中に「文武」という2つの要素があるだけなんですよね。

ワークライフバランスも一連の流れ

これは学生だけの話ではなくて、社会人も同じです。

よくワークライフバランスといいますが、

「バランスを考えてちょうどよく働くこと」

ではなく、

「仕事に正しく向き合うことで、プライベートも充実して過ごせること」

なのではないかと思います。

本気で仕事して、本気で遊ぶ、ってことですよね。

プライベートを充実させよう、として仕事で手を抜いたとすれば、

そこで流れは狭まったり緩やかになったりするわけで、

結果としてプライベートの充実も小さいものになってしまうのではないでしょうか。

まとめ~一道をいかに太く生きるか~

というわけで、文武両道、という分かれた2つの道ではなく全ては1つの道に過ぎないのではないか、という話でした。

1本しか道がないのであれば、そこをいかに太く、長く作っていくのか、という非常にシンプルな思考に落ち着きます。

それゆえに必死で働いて必死で遊ぶのが僕のポリシーですね。

ではまたいずれ。

最近の採用サービスって過保護なんじゃないか

最近よく思うことがあります。

「採用ツールに対して色んなサービスつけすぎやろ」

これ。

きっと逆もそうで

「就活ツールに対して色んなサービスつけすぎやろ」

とも思います。

そのせいなのか、高額なサービスが蔓延していて、採用単価は上がりやすくなっているし、高いお金を払っているゆえに「絶対ここから10名取らなきゃ」が「オワハラ」にうっすらつながらないのかな、と感じたりするんですね。

ということでその話を・・・。

本当になんでもやってくれる採用支援会社

採用担当になって一番これを思います。

いや、本当に凄いです。

スカウトのメッセージの送信代行とか、説明会の代行とか、面接の日程調整の代行とかもやってくれます。

もはやサービスを使っているというよりは、採用をすべてアウトソースしている感じですね。

面倒見がいいな、と思いつつ、それだけ全部やってくれるということは値が張るわけで、そのオプション全部外して今の半額にしてよ、と言いたくなるものもあります。(私の場合は言ってしまいます。断られますけど。)

領域は細かく分かれますが、採用支援をしている会社さんは非常に多いので、サービスの幅などで差別化しないとやっていけないんだろうな、と苦労を察しますね。

サービスの充実で採用担当の金銭感覚が問われる

上記のように何でもやってくれるようになったことで、(極端に言えば)お金さえ払えばだれでも採用活動が出来るようになってきていると感じます。

まあ、それ自体は必ずしも悪いことではないんですが、その一方で採用担当の「金銭感覚」みたいなものが問われるようになってきていますよね。

果たしてそのサービスにその費用をかける必要があるのか。というところ。

当たり前のことですが、売り上げと利益って違いますよね。

採用担当が掛けているお金は、利益の部分から削っているわけで、採用サービスに100万円掛けたときに、そのお金を生み出すために営業の人は1000万円分の売り上げを上げているかもしれません。もちろん会社の利益率などによって異なってきますが。

そのあたりの金銭感覚というかバランス感覚を常に意識してサービスを選ぶ必要が生じてきていますよね。

 採用担当の力量の差は大きくなるのではないか

・なんでもやってくれるサービスが増えている

・その結果サービス単価は上昇している

・採用担当に求められるスキルの中で金銭感覚のパイが大きくなっている

以上を踏まえると、もし「採用人数」や「母集団形成」が採用担当の評価に繋がるのであれば、お金を垂れ流すことに繋がるわけで非常に危険ですよね。

その一方で正しい損益分岐点というか、自分でやるべきところ、人に任せる(=アウトソースする)ところ、の住み分けをいかに見出すかというのが以前にも増してとわれるようになっているともいえるでしょう。

ストレートにいってしまえば、

手を抜こうと思えばいくらでも手を抜ける

状況であるからこそ、採用担当の力量の差は広がっていくのではないか、ひいては優秀な採用担当をいかに育てるか、あるいは採ってくるか、という話に繋がっていきそうです。

まとめ

採用領域に置いては、AIが発達してもそれを扱う人間に依存するところが大きいと思います。

それをありがたいサービスがたくさんある中で、それに甘えずに自分で出来ることをまずやる。

当たり前ですが、ここからまたスタートして採用活動をしていかないとな、という自戒のための記事でした。

モチベーションで仕事をしてはいけない理由

よく

「なにがモチベーションでそんなに頑張れるんですか?」

と聞かれます。

そのたびに

「モチベーションとパフォーマンスって関係ないよね」

と返すわけですが、今回はその話をします。

モチベーションは不安定

そもそも、モチベーションってすごく不安定なものだと思うんですね。

例えば、Aというプロジェクトを成功させたい!というモチベーションがあったとき、

そのプロジェクトに参画しているときは良いですが、そこから外されたときモチベーションって無くなりますよね。

外されるまでいかなくても、「やってみたら思っていたのと違った」というのはよくある話で、これもモチベーションを下げる要因になりますよね。

逆に上がる要因もたくさんあると思います。給料が上がった、とかね。

要はモチベーションってとても上下しやすく、不安定なものだよ、ということです。

延いては、モチベーションで仕事をしてしまうとパフォーマンスが非常に不安定になるということです。

求められるのは最低限のクオリティの担保

仕事をしていて求められるのは、どんなときでも一定の成果を出すことですね。

極端に言えば、

モチベーションが高いときは大活躍するけど、モチベーション低いときは周りの足を引っ張りまくる人、

いつも淡々と一定以上のパフォーマンスを発揮する人

どちらと仕事をしたいか、と言われると圧倒的に後者のはずです。

自分がモチベーションに依存して仕事をしていると、この最低限のクオリティの担保、というのができなくなるリスクを抱えているわけです。

仕事って、上手くいけばラッキー、くらいで依頼したりされたりするわけではなく、

「これくらいは最低限やってくれるよね」という信頼から生まれていることが多いですよね。

そこを守るためには、常に一定以上のクオリティを出してくれることが必須条件なんですよね。

モチベーションは現在ではなく未来におく

とはいえ、何のためにもならない仕事だと気分が乗らないのも事実。

では、どうするのかというと、未来に対してモチベーションを置くことが重要なのだと考えます。

つまり、

5年後こういう自分になっていたい!から頑張る!

という具合ですね。

もちろん、未来にモチベーションを置いたからパフォーマンスの波が全くなくなるわけではありません。ただ、波が小さくなるということです。

正直に言って、大変な仕事・やりたくない仕事も多いですよね。ただ、それもなりたい自分、未来の自分に繋がっていると思えばなんとか乗り切れるもの。

今目の前のことに対してのモチベーションだと、「やってられないよ」となるものも、未来に繋がっていると思えば、もうひと踏ん張り出来るものです。

まとめ

モチベーションはとても不安定なものです。

プロジェクト1つで変わってしまうし、失恋や人間関係でも揺らいでしまう恐れがあります。ただ、だからといってパフォーマンスが落ちたときに許されるのか、というとなかなかそうはいきません。

だからこそ、パフォーマンスとモチベーションは出来るだけ切りはなしてあげる必要があります。

もちろん、全くもって切り離すのは難しいことだと思います。それゆえに、未来にモチベーションを置くことで時間的に切り離してあげることが重要になってくるのではないでしょうか。

自分のパフォーマンスに誇りを持ちつつ、モチベーションに左右されずに結果を出す安定性を持っていきたいものです。

「客観的」になんてなれないんだから、しっかり「主観的」にものを言うべし

ここ数週間、公私ともにバタバタしており、ブログの更新が滞っていました。

厳密には下書きにはかなりの記事があるんですが、いまいち納得できていなかったり、書きなぐり→整形、という工程の「整形」の部分に時間を使えていなかったり、で非公開なまま数週間来ました(言い訳)

自己満足として始めたブログですが、久しぶりに呑む友人に「見てるよ」と言ってもらえたり、Facebookで「ブログ更新まだ?」とやや急かされ(?)たりして、「お、なんか意外に反響あるやん」と久々の更新に踏み切りました。

で、この記事ですが、本日僕の尊敬する友人が似たような話をライトめにFacebookに投稿していて、このテーマは僕自身かなり考えるところなので、勢いで書こうと決めたのでした。

客観的に決めたがるのってなんで?

僕の純粋な疑問です。

近々キャリアイベントをするのですが、そこの事前アンケートにも「客観的に就活をうまくやりたい」みたいなコメントがありましたし・・・。

自分の何かを決めるとき、上で言えば就職でありキャリアですが、なぜ客観的である必要があるんでしょう?

自分の影響下にあるものに対して、なぜ主観的に決めないのか?

自分で責任取りたくないから?多数派にいればそれ以上考えなくて済むから?客観的に見て正しければ、いずれ間違っても言い訳効くから?

多数派だからって正しいわけじゃない

ふと考えたんですよ。

確かに小学校中学校と、「みんながこうだから」で意思決定「させられて」きたな、って。自分の意思も弱かったし。

日本って画一的にしたがるところあるしね。海外?行ったことないですけど。

実際一人違うことをやる、とか、明らかにおかしな伝統(歴史的多数派)に異を唱えてつぶされてきたことって一度や二度じゃないですよね。僕だけじゃなくて。みんな。

そうやっているうちに、「自分のこと」も「自分で決めない」ようになってしまうのかもしれません。

でも、多数派だからって、正しいわけじゃない。ただ、それを「正しいと思う」人が多いだけ。「正しさ」なんて物の見方によって変わるもの。

天動説から地動説だってそうだった。当時にタイムスリップしたら、地動説唱えてる人なんてクレイジーだったかもしれないけど、結果彼らは正しかった。

彼らは周りから好奇な目で見られたかもしれないけど、自分の意見を自分の正義や信念のもとで貫いて、「正しさ」を変えたんですよね、きっと。

そこにはもちろん、「客観的」な根拠はあったはず。だけど、彼らの主張は「客観的」ではなく、根拠をもとにした絶対的「主観」だったと思うんですね。

「限定合理性」という考え方

少し前に読んだ本の中に「限定合理性」という考え方があり、

「あ~、これやな」とすごく腹落ちしたので少し触れておきます。

簡単に言えば、

いかに合理的にあろうとしても、そもそも認識できる合理性なんて限られているんだから、完全に合理的になんてなれないよ

という考え方(雑すぎて厳密には違うよ、とかであればすいません)です。

もともとは経済学の言葉だそうですね。

ここでは合理性ですが、客観性も同じだと思います。

就活にしろ、キャリアにしろ、スポーツにしろ、遊びにしろ、恋愛にしろ、

いかに客観的に情報を集めて判断しようと思っても、

「情報の集め方」に自分でなんらかのバイアスをかけているし、

「落ちている情報自体」も、流した人がなんらかの意図を持っているし、

「情報をもとに何かを決めるとき」もその人自身のバイアスがかかる。

ってことはいかに「客観的」になることを心掛けたところで限界があるわけですよね。

そういう意味ではやはり、客観的になんてなれないよ、という結論に至りますよね。

意見を聞いたうえで「主観的」に意思決定すべし

客観的になれないから、人の意見なんて聞かなくていい、わけではもちろん無くて、

先人の知恵は可能な限り活用すべきです。

そこに流される必要がないだけ。

本で偉い人が言っていること、会社や学校の先輩のいうこと、親や兄弟が言うこと、そして自分の意思、どれも大事。

あとはそのうえで、自分がどう「意思決定」するか、ただそれだけ。

もちろん失敗するかもしれません。

でもそれでいい。

そうしたら、「あ、あの人の言ってたこと当たった、今度はもう少し参考にしてみよう」と思えばいいだけ。

「今回はどういう理由で失敗したんだろう」と少し振り返ればいいだけ。

幸い、日本という国では1度や2度失敗しただけじゃそうそう生きていけなくなりません。

なんとかやっていけます。

そういう危険性よりも、自分で考えることを放棄して「死んだように生きていく」方がはるかに怖い。

そしてそういう生き方をするのがはるかに簡単なのもこの国の特徴なのかも知れないな、とこの頃思ったりします。

まとめ

結局、どこかで自分で決めるタイミングを作らないといけないです。

自分の意見であり、自分の人生だから。

そこで批判されたり、非難されることもあると思います。

その時は素直に相手の意見を聞けばいいだけです。

その上で、やはり違うと思えば意見を戦わせればいいし、その通りだと思えば吸収して次につなげればいい。

自分の意見をしっかり言わないと、誰の意見も新たに聞けなくなるかもしれない。

その方が怖いですよ、実際。

 

僕もしっかり自分の意思を伝える場所として、こういう場所も大事にしていきたいと思います。

次は1週間以内に更新できるといいな(笑)

タスクは70%の状態で投げるべし。

以前、「色黒大阪人な僕が即レスに異様にこだわるたった1つの理由」の記事で少し触れた「70%のデキでさっさと投げ返す」話を深掘りしていこうと思います。

学生時代優秀な人ほど仕事が遅くなるワナ

クライアントのオーダーに応える、タスクの基本型はこれですよね。

クライアントは社外にいるケースもあれば、社内あるいは同じチームのメンバーかも知れませんが。

もちろんオーダーには100%応えたい、という気持ちはきっと正しく、追い求めるべきものですよね。

そこで「優秀」な人はワナにかかるんですよね。

「100%の状態で提出しなきゃ!」って。

クライアントのオーダーに応えたい。

間違えて怒られたくない。

1発で正解にたどり着きたい。

色んな事情があって、その影響で「完璧」な仕事を目指してしまいがちですよね。

かく言う私もそれでした(笑)色々炎上したなー、うん。

ほとんどのクライアントの中にゴールイメージはない

ここはしっかり意識すべきポイントですね。

ほとんどのクライアントには「明確なゴールイメージはない」です。

「こんな感じだといいなー」とか「こういう方向性で」のような、アバウトなゴールイメージしかありません。

アバウトなゴールに対して100%の正解を求めることがそもそもおかしいですよね。

では、どうするのが良いのか。

「型を作って、そのあと一緒に埋めていく」

これが大事です。

※ちなみに、もちろん、めちゃめちゃ明確なゴールを示してくださる方もいますが、かなり例外的なケースですし、そういう場合は進捗も計りやすいので、今回は一旦除外して考えていきます。

70%の進捗=型を作ること

冒頭にお伝えした、70%でさっさと投げちゃえ、っていうのはここですね。

クライアントのふわっとしたイメージをある程度の型にして具体化する、これが70%の状態です。

売上があげたいと言われれば、「●●って方法がありますよ」とか

記事を作るなら「全体の流れは出来ました。どうでしょう?」みたいな状態。

そうするとクライアントは言ってくれるはず。

「おお、これいいね。どれくらいの効果があるの?」

「もう少し○○な方向でいけない?」

やっとゴールイメージが明確になってきました。

自分で作った型を基準に方向性を明確にしていくイメージですね。

これは自分の中での方向性だけじゃなく、クライアントの方向性も明確にしていく意味で本当に重要です。

繰り返しになりますが、クライアントに明確なゴールイメージがついているケースは少ないので。

そもそも僕らのいう「100%」なんか価値がない

元も子もないことを言えば、僕らが「100%」って思ったところで1ミリの価値も無いんですよね。

それが「何%」なのか判断するのは「自分ではなく相手」だから。

特に若いうちや、クライアントとの関係が浅いうちは、僕らの仕事なんて「基本ゴミ」なんですよね。

だってまだ分からないことの方が多いんですから。知識的にも経験的にも足りないことばかりで、(語弊はありますが)出来なくて当たり前で、提出した課題なんか「使い物にならなくて当たり前」つまりは「ゴミで当たり前」なんですよね。

ただ、その中にも

「良いゴミ」と「悪いゴミ」

があって、最初はそこを分別して「良いゴミ」を育てていくしかないんですよね。自分の理解が追いついているところ、自分の得意なところ、など要因は様々ですが。

そう考えると最初のうちから100%を目指してバタバタしてしまうのは、無意味なのかなと正直思いますね。

 とにかく最初は打席に多く立つべし

じゃあどうするのが一番成長するのか、というと「とにかく多くの仕事をこなすこと」です。

新人でも、その仕事をするのが初めてでも、なんでもいいですが、「習うより慣れろ」というように、とにかく数をこなすのが一番早いです。

もちろん一定以上こなしたあとは「しっかり振り返る」という頭を使った作業を行うべきですが、何もわからない状態で振り返りをしたところで「浅い振り返り」しかできないので、それならばとにかく数をこなすことが重要なんですよね。

数をこなしてその分、アドバイスやフィードバックをもらうのが大事。

何かを習得するとき、最初のうちはかけた時間やこなした量に対して、成長率が非常に大きいものです。

この成長率が大きいうちに、数をこなしてしっかり成長すること。

そうするとあるとき、「ガムシャラにやってきたけど、このままじゃダメかも」と思うときがやがて来るので、そのときに「振り返り」をして、次につなげればいいんですよね。

ま、もっとも、数をこなす間に殆どの人は小さい試行錯誤をしているはずなので、何も考えてないわけではないんですけどね。

まとめ

ということで、まずは自分の成果なんて「ゴミ」みたいなもんだ、と良い意味で割り切って、どんどん数をこなすこと。

そしてどんどん人に投げて、フィードバックやアドバイスをもらうといいです。

自分の頭の中で考えているより、先輩や同僚の目にさらしてみることです。

先に言ったとおり、「ゴミ」なので、最初は笑われるかもしれないし、厳しい言葉を浴びるかも知れません。

それでも、後々のために、しっかりと数をこなす期間を作ると良いと思います。

 

それでは、また次回。

無意識な「成長」こそ大事

どうも、僕です。

前回の「ベンチャーだから成長できるわけじゃない」を書いたとき、Facebookにて友人から「そもそも成長ってなんなんすか!?」と言われました。

確かに。あんまり考えたことなかった←

ということで、今回は成長とはなんぞや、ってところを考えます。

意識的な成長と無意識的な成長がある

成長は2種類に大別できると思っています。

「意識的な成長」と「無意識的な成長」の2つ。

「意識的な成長」とは、「意識して出来ることが増えること」。

例えば、「今週はテレアポをいつも以上に頑張るぞ!」と意識をして「普段の倍の受注を得る」とかですね。明らかに普段より成長してます。素晴らしい。

これが「意識的な成長」ですね。

「無意識的な成長」とは、「意識せず出来ることが増えること」。

例えば、「あら?いつの間にかメール返すの速くなってた」みたいな。気づかないうちに出来るようになっている、とかもこれですね。

2つの成長の違い

さて、「意識的な成長」と「無意識的な成長」の違いはなんなのか。いくつかあります。

1つ目、成長の自覚があるかないか

「意識的な成長」はとても実感がありますよね。「おおお、俺出来るようになってる!」みたいな。努力もその分しているでしょうし、達成感も結構あります。

「無意識的な成長」はあまり実感がありません。大抵はかなりあとになって気付くものですし、あるいは同期や先輩から「出来るようになったな」と声をかけられて気付くことが多いですね。

2つ目、使うエネルギーが多いか少ないか

「意識的な成長」は、「やろう!」と思って「意識的に努力」をしていることが多いので、エネルギーを使いますね。ここでいうエネルギーは体力もそうだし、精神力や時間などをトータルして考えたものですね。

「無意識的な成長」は「気付けば出来るようになっている」わけなので、エネルギーを使った実感はあまりありません。もちろん、まったくエネルギーを使っていないわけではないですが、少しずつの積み重ねでうまれてきたものなので、そこまで大きく疲労感を感じることはありません。

3つ目、短期的か長期的か

ここまでくれば、うっすら気付いていた人も多いと思いますが、「意識的な成長」はある程度短い期間で感じられる成長であり、反対に「無意識的な成長」は比較的長い期間で感じられる成長です。

もっと言えば「意識的な成長」は集中的で断続的ですが、「無意識的な成長」は並列的で継続的です。

「意識的な成長」はエネルギーを多く使うので、短期集中一発勝負。

「無意識的な成長」はエネルギーをあまり使わないので並行して複数の成長を遂げることができる、ってイメージですね。

意識的な成長の先に無意識的な成長がある

では、どちらの成長を追い求めるのか。

先までの書き方だと、「無意識的な成長」っぽいですよね。間違いなく(笑)

結論から言えば、どちらも大事です。

というよりは、「意識的な成長」を「無意識的な成長」にいかに転換するか、が大事です。

つまり、「意識的に出来ること」を「無意識的な出来ること」に変えていくことが大事なわけです。

先の例で言うなら、「無意識」で今の倍の受注を得るようになる、ことが大事なわけですね。

「意識的な成長」ってエネルギーを掛けている分、そして成果が短期的に出て分かりやすい分、どうしても目がいきがちで、かつ単発的になってしまいます。満足に浸りやすいですしね。

ただ、思うに、「意識して出来る」って「アタリマエ」なんですよね、きっと。

そりゃ意識していれば出来るようになるし、それだけに集中していいなら成果を出すのはそこまで難しくないんですよね。

仕事を進めていくと、マルチタスクをこなさないといけなくなる。たとえば、私の場合だと採用も事業もバランスとりながら回さないといけない。そのときに「意識すれば出来るんですよ」なんて言えないですし、言ったところで言い訳になってしまうんですよね。

だからこそ、「無意識的な成長」をいかにするかが大事なわけです。

 無意識的な成長をするためには

ではどうやって「無意識的な成長」をするのか。

「意識的な成長」をし続けること。これしかありません。矛盾するようですが。

先に挙げたように、「無意識的な成長」は「意識的な成長」の先にあるので、「意識的な成長」を続けない限りは達することが出来ませんね。要はチャレンジし続ける、ということ。ここでいうチャレンジはキャパに対して110%くらいのものが、無理しすぎず成長できるくらいだと思います。

そしてそのときに(先述のように)「意識して出来る」って「アタリマエ」だと思うようにすること。

そうして、「意識的な成長」をし続けたとき、無意識的に出来ることは自ずと広がっていて、やがて自分から言わなくとも人から「成長したな」と言われるときが必ず来ます。

そう言われるまで続けなければいけません。きついですけどね。

まとめ

途中でやめてしまって、「私はこれだけ出来る」といったところで、それが単発であれば「出来る」ではなく「出来た」の過去形にしか過ぎません。

そしてそれを過去形のままにして、「意識的な成長」を止めてしまったとき、それは「成長」ではなく「自己満足」になってしまうんだと思います。

そうなると悲劇ですよね。

間違いなく自分は努力もしたし、結果も一時的には出した。にもかかわらず、「成長」ではなく「自己満足」で終わってしまう。

成長は、自分で決めるのではなく、他人が決めるもの。

そう割り切って「意識的な成長」を続けたとき、「無意識的な成長」にやがて繋がって、いつの間にか「デキる人間」になれるのではないでしょうか。

 

さて、少し長くなりましたが、今日はここまで。

それではまた。