【要約】多賀少年野球クラブの「勝手にうまくなる」仕組みづくり
本ページはざっくりとした要約と、それに対する私の解釈をコメントし、優れた本を紹介させていただいています。
今回は辻正人さんの、「多賀少年野球クラブの「勝手にうまくなる」仕組みづくり」です
全体要約
2018年、2019年に全日本学童大会連覇を果たした滋賀県の多賀少年野球クラブ。強豪チーム特有の厳しい指導…かと思いきや実情は子どもも保護者も笑顔になる「勝手にうまくなる」仕組みを作り上げている。
そこに至るまでには結果の残せない時期、保護者からの厳しい声、様々なことがあった。
指導者目線だけではなく、子ども目線は当然ながら、子を持つ保護者の目線も重要視しながら、その上で「子どもが最も成長するやり方はどうか」を既成概念にとらわれずに考え抜いて取り組んでいる。
章の構成
第1章 チームづくりの方針
多賀少年野球クラブさんがどのようにチーム作りをしているのかを紹介している。
練習も試合も楽しく、という方針や、
学年の障壁なく指導しており、固定化しないことで常に活気を生んでいる、という点は本質的だがなかなか取り組めているチームは少ないように思う。
また、他チームとの比較も積極的にしてもらいたいと考えており、移籍をしても活躍していると聞くと喜びがある、というのも長年議論される「移籍問題」の1つの理想形だと感じる。
第2章 選手がうまくなる仕組と指導
多賀少年野球クラブさんの特徴の1つは低学年から座学で野球を落とし込むということ。最初は聞き流していても、いずれ試合や練習で理解できる時が来る。最初からすべて分かるのではなく、わかるための下地を整える、これを低学年から徹底してやっている。
また、「待ち時間」を徹底的に減らす工夫をしている。練習試合も「総合練習」と捉えて、ベンチメンバーの一部は練習に励んだり、当然試合に出ているメンバーも課題を持って取り組んでいる。
その繰り返しで時間の「密度」を上げ、自ら上手くなる仕組にしていると感じる。
第3章 チームの環境と運営
どのチームにでもある保護者会の制度をうまく仕組化し、役員や審判が過度な負担にならないよう、少額ではあるが謝礼を払うことで「不平等感」を軽減している。
野球が子どもの自由を奪わないよう、事前にスケジュールを可視化し、「野球もある」生活リズムを作り上げる。
地域との協力も工夫をして連携し、決して一方的なボランティア・負担にならず、メンテナンスの代わりに宣伝、グラウンド利用の代わりに適切な施設管理、と互いに付加価値を出して支えあっている印象。
第4章 子どもの育成と「魔法の言葉」
大人の指示通り動くのではなく、子どもが自ら考えて動く、それを目指して育成を進めている。
そのために大人が様々なことに気づいて、子どもの動きを認める声掛けをする。
野球に限ったことではなく、勉強や遊びそのほかのレクリエーションでも同じである。
この雰囲気、活気をどう醸成するかが大切
第5章 目指すべき少年野球の形
大人も「何が目的か」を考え、行動することが大事。ルールも時には必要だが、「ルールだから」と考えることを放棄しては本末転倒である。
少年期においては、「学年」よりも「野球歴」が大事。6年生であってもつい最近始めた子と、1年生からやってきている子では出来ることが違って当然。
まとめ
少年野球のみならず、サッカー、バスケ、場合によっては塾やそろばん教室など、子どもたちが集まる場所ならではの悩みをどう解決するのか?
目的である「子どもが好きで始めたことを応援する」ということに対して、知恵を絞って考え、その方法を惜しげもなく共有してくれている本。
子育て、チーム運営に悩む方は多いと思います。一度手に取ってみてはいかがでしょうか?
全国大会中止議論が本質をついていないなと感じるGW
最近話題の全国大会中止論
全国大会を中止へ、という議論が最近少年スポーツ界隈で取りざたされている。
なぜだろう?と色々調べているとどうやらこういうことらしい。
勝利至上主義に偏って、いきすぎた指導が横行している
これを文面通りとるなら、
原因:勝たせたい気持ちがいきすぎる。
結果:いきすぎた指導が横行する。
ということになる。
安直すぎないか…?という疑問はあるけれど、いったんそれを受け止めたとして、さらに考えるなら、
なぜ勝たせたいと大人は思うのか…?
プロになる
オリンピアンになる
立派な大人になる
自信を持たせたい
良い経験を積んでほしい。
とかだろうか?(勝って大人が威張りたいとかもあるか…?)
それが行きすぎた指導になる、と。
やっぱり安直だなあと感じてしまう。
大前提として、先にあげた【結果】の
【いきすぎた指導が横行する】
これは悪だろう。
「いきすぎた」の定義に差はあれど、それに対して「是正すべき」と感じるのは私も同様だ。
あとはそれの
・割合(頻度)
・質(深刻さ)
・本質的な原因
が大切だ。
現場で感じること
ここからは感覚論も多くなるが、数年間少年野球に監督としてかかわってきて、多くのチームを見てきて、この「割合」や「深刻さ」はごく一部、数%の世界じゃないかと思っている。
あくまで相手チームのことはその試合中でしか見ないのでなんともだが、
このご時世暴力の現場を見たことは皆無だし、罵声を浴びせている指導者は広い意味の罵声を含めてみても、多く見積もって5%くらいかなと感じる。
私たちの所属するスポーツ少年団は東京オリンピック(1964)に向けた「オリンピック青少年運動」の一環としてスタートし、創設から約60年。
うちのチームもそうだが、創設メンバーの方々は現場を引退し、2世代3世代の世代交代が進んだのが今で、いわゆる「昭和的な指導」というか
「水飲むな」
「死ぬ気で」
といった指導を(少なくとも指導者側で)行ってきた人は絶対的に少なくなってきているのではないだろうか。
チームから個人に考え方は変わってきている?
また、仮にそういう指導があったとしても、それはチーム単位ではなく個人単位で起こっているケースが多いのではないかと仮説を持っている。
チームとして(極端に言うと)
「勝ちたいんで、しばきまわしながら鍛えまっせ」
というチームはもはや今のご時世、
「あ、別に他の選択肢(チーム・スポーツ)あるんで大丈夫です」
といわれてしまう時代だ。
一昔前と違って、近隣のチームの情報もWebサイト等で調べられるし、ましてや人の「コメント」の力は明らかに強くなっている。
一方で、「よその子」の教育に二の足を踏む今のご時世は、
逆に言えば「うちにはうちのやり方がありますから」という理由で、「自分の子どもに厳しく指導する」ケースがあるときに周囲がそれを止める術が少ない。
そういう意味でチームでそのような「いきすぎた」指導が行われていなくても、「あー、特定の子に言うてるなあ。親父さんかなあ。」と感じることは時々ある。
つまり何が言いたいかというと、現場レベルでは一部の超例外的ケースを除いて、
「いきすぎた」指導は逓減してきており、一方で、
「個人レベル」での「いきすぎた」指導はちょこちょこあるかもしれない、という感じだ。
したがって、冒頭の話に戻るが、
「いきすぎた」指導が結果だったとしたときに、その原因は「全国大会を目指しているから」というチームスポーツの問題ではなく、より「個人」の問題が根幹にあるのではないか?と思っている。
子どもから選択肢を奪わず与えていきたい
僕は勝利至上主義に賛成でも反対でもない。
「勝たなきゃ意味がない」という「Must」な思考には反対だが、
「勝ってこそ見えるより広い世界がある」という「Better」な思考には賛成だからだ。
前者は「勝つ」こと以外の選択肢を否定していて、
後者は「勝つ」こと以外の選択肢を肯定している。
子どもたちには「選択肢」を提示していくのが大人の責任だと思っている。
子どもに応じてその難易度や幅はあれど、
「こういうパターンもあるよ」
「あんなやり方もあるよね」
こういうのが大人として子どもに接する1つの責任じゃないかと思っている。
そう考えたとき、「全国大会を禁止します」ということは「1つの選択肢を子どもから奪う」ことになっているとしか感じないのだ。
今日この後新卒にする話
今日はうちの会社に縁あってご入社された新卒の子と部門長としてお話しする日だ。
入社式を見ていても、それぞれとても頭がよく、真面目で行動力があるんだろうなー、と感じた。
自分の新卒の頃とは比べ物にならないくらいちゃんとしていたなー(笑)
毎年この季節になると、なにか伝えてあげたいなぁと思いつつ、
上からモノを言うような形にしないとなぁ
とか
あんまり難しいこと言うのもなぁ
と考えてなかなかまとまらない。
ということで、今日話すのはとてもシンプルに
「モチベーションで仕事しない」
にしようと思った。
きっかけは自分の新卒時代にもらったフィードバックシートを読み返したこと。
当時の先輩から言われた「改善点」がこれだった。
言われた瞬間は「???」となったわけだが、ドトールでコーヒーを飲みながら話をして納得した。
「モチベーションで仕事しない」
というのはつまり、
「モチベーションに左右されているようじゃプロじゃないよ」
って話だ。
仕事も人間関係も、あるいはプライベートも、いろんな環境の変化がある中で、人生気持ちが一定であることはなかなかない。
思ったのと違う!納得できない!となったときにそりゃモチベーションは下がる。
それは仕方ない。
でも、そのときにパフォーマンスまで下がっては意味がない。
会社のやり方に納得していなかったとしても、前日に恋人と別れたとしても、お局さんに嫌みを言われた昼下がりだったとしても、それらは取引先や顧客には関係ない以上、仕事を通して出すべきパフォーマンスは変わらない。
言う易し、でこれをし続けるのはなかなか難しい。
心と身体(行動)を切り離すような作業が必要だし、そりゃ無理やで人間だもの、と思うこともある。
個人的な感覚としては、自分の頭の上にもう一人すごく冷静で無関心な第三者みたいな自分を置いて、そいつと一緒に二人三脚でいると良い感じ。
モチベーションが下がったときだけじゃなく、トラブルでパニックになっているときもそいつは助けてくれる。
そんな感じで、衝動的な行動を抑えて、「モチベーションで仕事しない」人になってほしいなぁ。
ちょうど電車が終着駅までついたので、ここまで。
新卒の子と一緒に僕自身も学び続けていきたいなぁ。
ベンチャーで感じる論理と感覚の振り子のお話
新卒時代からずっと「ベンチャー」と呼ばれる企業で働いてきている。
この「ベンチャー」という言葉の定義は引き続き曖昧なので、アレですが、
新卒で入社した会社も、そのあとの会社も、今も、あるいは一時的にお手伝いをさせていただいた会社も、
過去籍を置いたことのある会社はすべて「ベンチャー」を自称していたし、客観的に見ても「ベンチャー」と呼ばれていたと思う。
「ベンチャー」の定義の1つ、特徴の1つに
- 事業及び組織の成長スピードが速い
- (それに伴って)変化が速い
というものがあると思う。
その結果、退職者が一定出たり、逆に組織のフェーズに必要な人材を採用したりと、人の出入りが激しいのも1つの特徴である。
0-1のフェーズにおいては何より実行力が求められる
世の中に必要であるサービス、お金になるビジネス、誰も思いつかなかったようなアイデア、入り口は様々あれど、それを「実行する力」が求められる。
良いアイデアを持っていても実行できなければ一円にもならないからだ。
もちろん、そこには一定の論理・裏付けはあるが、どちらかというと「感覚」「感性」「情熱」に近いものを創業メンバーは持っていることが多い。
1-10のフェーズにおいては仕組みづくり・汎用性が求められる
これから会社を大きくしていく、事業が成長していくにあたって、創業メンバーの「感性」だけではリソースが足りず、それを裏付ける「論理」「仕組み」が必要になってくる。
感覚<論理となることも多いため、ある意味これまでやってきたことが否定される側面もあり、ここで創業メンバーが去ることも多いし、社外から優秀なスタッフを採用することもある。
ちなみに僕はこの辺の「仕組みづくり」「制度設計」「脱属人化」みたいなところが強みみたいです。
10-100のフェーズは多様化と安定が求められる
仕組みをしっかり整えた会社は大きく成長するために、これまでになかった職種の採用や、新規事業の立ち上げなどを行うため、社内に抱える人材や状況は「多様化」してくる。
一方で、より大きな組織になることから、基盤を並行してさらに強固に整える「安定」の作業を並行して行う必要も出てくる。
ここの動きは割りとその組織によってそれこそ「多様」で1つではくくれないものの、ただ、「1-10」でやってきた「仕組みづくり」などの「今の延長線上」だけではスケールしないんだなあと感じるのは間違いない。
組織フェーズは振り子である
そんな組織のフェーズとともに、必要な人材や求められる能力は振り子のように行ったり来たりするのではないかと思う。
よく、「創業期のメンバーがいなくなるのは仕方ない」とか「会社の成長についていけない」などという言葉で片付けられてしまうのだが、
会社の成長や変化は一次関数的な成長「直線」でも、二次関数的な成長「曲線」でもなく、「スイングアップ」していくものなのではないか?と思うのだ。
文字だけでは伝わらない気がしたので、僕の脳内にある拙い図(製作時間5分)を置いておく。
もちろん、振り子の勢いに負けて飛び出てしまう人は出てくるだろう。
でも、それはその人が間違いなく「必要ない」のではなくて、そのときの波に飲まれた(あるいは飲まれずに漏れた?)だけのことなのだ。
寄せては返す振り子だからこそ、時々、思うのだ。
「あの人がいてくれたらなぁ」と。
少し前までは「俺も懐古的になったなぁ」とか
「昔の方が良かったとか老害なのか?俺。」
と自分自身の感覚に否定的だったのだが、最近はその「懐古」も必然なのではと思うのだ。
だからこそ、世の中には「アルムナイ」
「アルムナイ(アラムナイ)」(alumni)はalumnusの複数形で、本来は「卒業生、同窓生、校友」の意味。 転じて、企業の離職者やOB・OGの集まりを指します。 海外では、企業が一度は自社を離れたアルムナイを貴重な人的資源としてとらえ、これを組織化し活用する事例が少なくありません。
元社員に対して会社側が継続的にコミュニケーションをとり、優秀な人材の再雇用につなげるなどの施策を「アルムナイ制度」と呼び、近年は日本でも注目を集めています。(コトバンクより引用)
みたいな言葉もあって、かつてお世話になった会社に再度戻ってくる、ということもあるんだと思う。
寄せては返す振り子に振られながら、2022年も頑張ろうと思う。
相手に言いたいことを伝える話し方の初歩的なコツ
相手に話をするときに結論を先に言いなさいというのはプレゼンでも就活でもよく言われることだ。
とてもシンプルで当たり前のことだが、社内外のMTGでも、学生・中途問わずの面接でもこれが徹底できている人は20%くらいだろうか。
もっと少ないかもしれない。
特に自ら話しているタイミングではなく、こちらが質問をしたことへの回答、いわゆる質疑応答になるとそれが出来ない人が非常に多いと感じる。
結論が最初に来ないと、どこに軸足を置いて話を聞けばいいかが定まらないため、何を話しているのか内容がよくわからないことにつながる。
枕詞が大事
結論を話すコツは話の冒頭に「一言で言うと」という枕詞をつけることだ。
「他社との違いはなんですか?」
「一言で申し上げますと、価格面が他社よりもn%ほどお安くなっております」
あるいは
「学生時代に力を入れたことはなんですか?」
「一言で言うと、野球部で全国大会出場を目指して努力したことです」
といった具合だ。これくらいシンプルでいい。
多くの人はここで具体的な話をしてしまう。
「資料の7ページをご覧いただいて、ここの機能が…」
「私は15年間野球を続けてきたのですが…」
のような回答で、質問に最初の一文で答えられていない。
もちろん、最後まで聞けば回答になっているのであろうが、逆に言えば「説明のあとにしか回答をしない」わけであって、相手の疑問をそのままに説明に入ってしまっている状態だ。
話したい気持ちは分からないではないが、これでは聞き手にとって不親切である。
まずは質問に対して「一言で言うと」でシンプルに回答する。これに尽きる。
説明も枕詞をつけて
とはいえ、「一言で言うと」だけで終わってしまっては説明としては不十分だ。
そのあとに先のような詳細の話が来ることになる。ここで使うフレーズは「具体的に言うと」という言葉だ。
それを用いると
「他社との違いはなんですか?」
「一言で申し上げますと、価格面が他社よりもn%ほどお安くなっております。具体的に言いますと、資料の10ページ目に記載の通り、初期費用がx円、ランニングコストがy円となっており、これは他社と比べても…」
のようになる。
あるいは
「学生時代に力を入れたことはなんですか?」
「一言で言うと、野球部で全国大会出場を目指して努力したことです。具体的には、練習の方法を根本から見直し、個々の課題に適した練習メニューを提案したことでチームの成績を飛躍的に向上させ…」
というようになる。
聞き手としても、「具体的に言うと」と言われると「あ、ここから詳しい話に入るのだな」と理解が出来るし、
もし先の「一言で言うと」の時点で疑問があれば、「具体に行く前に少しよろしいですか?」と疑問を早めに解消することも出来る。
非常に聞き手に優しい話の展開になる。
まとめもしっかりと
「具体的に言うと」の話の長さにもよるが、具体的な話を終えた段階で「まとめると」の枕詞とともに冒頭の結論を再度提示してあげるとよい。
「他社との違いはなんですか?」
「一言で申し上げますと、価格面が他社よりもn%ほどお安くなっております。具体的に言いますと資料の10ページ目に記載の通り、初期費用がx円、ランニングコストがy円となっており、これは他社と比べても…。まとめますと、弊社の提案はn%のコストカットが出来るということです」
や
「学生時代に力を入れたことはなんですか?」
「一言で言うと、野球部で全国大会出場を目指して努力したことです。具体的には、練習の方法を根本から見直し、個々の課題に適した練習メニューを提案したことでチームの成績を飛躍的に向上させ…。まとめると、全国大会出場のために創意工夫をした日々が、学生時代最も注力したことです」
というような形だ。
具体的な話は双方盛り上がる一方、そのプレゼンが終わった後に「あれ、結局何が言いたいんだっけ」となることもしばしばである。
それを防ぐために着地点をお互いそろえる必要があり、そのために「まとめると」という枕詞で、「ここで認識揃えますよ」とアピールしてあげるとよい。
話すのは難しいことじゃない
小難しく語ったけども、話をするのはそんなに難しいことではない。
ここまで述べた「一言で言うと」「具体的に言うと」「まとめると」の流れは普段無意識に使っているはずだ。
日常でも
「好きな俳優だれ~?」
「横浜流星!こないだのドラマ超やばかった!あの○○のシーンとかめっちゃかっこよかった!横浜流星最高~!」
みたいな会話とかたまにスタバで聞こえてくる。話しているのは高校生か大学生くらいの女の子だ。
この
「横浜流星!こないだのドラマ超やばかった!あの○○のシーンとかめっちゃかっこよかった!横浜流星最高~!」
は
「(一言で言うと)横浜流星!(具体的に言うと)こないだのドラマ超やばかった!あの○○のシーンとかめっちゃかっこよかった!(まとめると)横浜流星最高~!」
最高のプレゼンである。
「好きな俳優だれ~?」という質問に突然お気に入りのドラマのシーンの説明(具体)から入る人はほとんどいないだろう。
まとめ~プレゼンは掛け算である~
横浜流星の例から分かるのは、ほとんどの人に「ちゃんとプレゼンする能力」はすでに備わっていて、あとはそれを「いかに発揮するか」ということだ。
もちろん、重要かつ難易度が高い話になればなるほど、シンプル化して話すのは難しいし、これほどシンプルな回答でいいか不安になるだろう。
しかし、大事なのは
プレゼンテーションの成果=自分の伝えた内容×相手の理解率
であるということだ。
自分がアウトプットする内容をいかに難しく精度高くしたとしても、それが相手の理解につながらなければ、プレゼンテーションの成果は最大化されない。
反対に伝えた内容が細部まで説明が及ばなかったとしても、重要な部分の理解が相手の中で100%まで達していれば、プレゼンテーションの成果としては十分だといえるだろう。
「言う」で終わらずに「伝える・伝わる」ような話し方を出来るようにしたいものです。
ズバズバ物を言っても理解されるようになってきた変化について
僕は結構ズバズバいうキャラクターだと思う。
良いことも悪いこともできるだけ伝えるようにしている。
物心ついたころにはそういう人だったように思うし、そのせいで子どものころから色んなトラブルを巻き起こしてきたし、巻き込まれることも多かったと自覚している。
それは学生になっても、社会人になっても同じで、多くの敵を作りつつ生きてきたんだろうなと思ったりしている今日この頃。
それが最近、そういう物言いに対して、割と理解されるようなことが増えてきた。
僕自身はそこまで大きく変わっていないし、別に周りに遠慮しているわけでもないが、なんとなく理解者が増えている感じはある。
上司と話をする中で少し見えてきたことがあり、せっかくなのでそれを何となく言語化しておこうと思う。
そもそもズバズバ物を言うって何なのだろうか、という話から因数分解の必要がある。
ここは要するに「自分が感じたことをそのまま言葉にする」ということじゃないかと思う。
幸か不幸か、「言葉にする」というのは得意なので、まさに「自分が感じたこと」と「言葉にして出ること」がイコールになるのが僕だ。
「この人が嫌いだ」と思えば、「僕は君のことが嫌いである」と言えてしまう人だ。
今、字に起こしてみるとつくづくヤバイ奴だなと思うが、事実なので仕方がない。
そりゃ揉める。過去の人たち、すいませんと今なら言える。
言葉を変えるなら「遠慮のない」物言いなんだろうな僕は。
そこは変わっていない訳である。今も昔も。
さて、ここで上司との話になるわけだが、上司は言うのだ。
「効率主義なお前が、なぜ自分が感じたことをそのまま言葉にするのか」と。
おお。確かにそれは面白い。
僕は自他ともに認める効率主義、時短主義、めんどくさがりetcだ。
ただ、僕は今やマネージャーであって人の上に立って組織を率いないといけない立場だ。僕の主義主張だけで成り立つ仕事ではない。
それは明らかである。
「そりゃ、僕がやった方が早いと思うことも多いですが、僕は人に手を動かしてもらうことが仕事ですからね」(話は飛ぶが少年野球の監督もまさにこれだなと今思う)
上司は返してくる。
「なるほど。つまり、チームの全体最適のために今は相手に指摘をしているわけだな。」
そこまでの大義名分は感じていなかった気もするが、そうらしい。
上司は続ける。
「じゃあ、チームを持つ前はどうだったんだろうか?その時は何のために指摘をしていたんだろうか?」
なるほど。と思った。確かにそれは大きな変化だった。
これまでのトラブルを起こしがちな僕自身は、「自分が感じたことをそのまま言葉にする」のはまさに「自己表現」でしかなかったのかもしれんなと。
それが今の「自分が感じたことをそのまま言葉にする」は「組織課題を明確にする」という理屈で成り立っている。
主語が「I」から「We」になった感覚だろうか。もしかしたら「I」から「You」かもしれないが、なんにせよ主語が「I」ではない「遠慮のない物言い」になっている気はする。
最後に最も腹落ちする言葉をもらった。
「今のお前の言葉に遠慮はないけど、配慮はある。」
なるほどなあと思った。
遠慮するかどうかの判断基準はすべて自分で完結する。
それが配慮となると相手の状況を理解したうえでどうするかを選択する。
昔の自分に足りなかったのは「配慮」だといわれると納得感も大きかった。
今の世の中、個性を尊重してくれる。
むしろ自分の意見を持てと言われることも多く、それをかさにかけて相手を傷つけてしまう僕のような人もいるだろうが、
「遠慮」はしないが、「配慮」はする、というのを出来るようになれば割りと周りは大きく変わるよ、という気づきをここにシェアしておきたい。
(ま、僕は今日気づいたんですけどね)
性善説と緊急事態宣言
2年ほど前に下記の記事を書いた。
そこで書いた通り、私は組織は性善説で運用されるのがベストだと思っている。
性善説の良さ
最低限のルールがあれば十分に成果が上がるし、余計なマネジメントは必要ないし、そういう規制やマネジメントにかけている労力をすべて目標達成のために注げるからだ。
定期的に「この学校は自主性を重んじています。その結果偏差値●●という超進学校として…」みたいな話があったり、ラグビーで有名な東福岡高校なんかも自主性を重んじる部活動の方針であるという話が数年前にテレビで取り上げられていたように思う。
一定の成果がそういった環境で挙げられてくるのは、性善説で組織が運用されているからだろう。
緊急事態宣言の重みがなくなってきた
さて、3回目の緊急事態宣言が発出、そして延長されるという話が出てきた。
それでも人では(思っていたよりは)減らない、だから延長だ、ということらしい。
緊急事態宣言の是非はここでは論じないし、医療従事者の方には頭が下がるばかりである。
一方で、効果がなかなか出ない背景には上記の「性善説」が崩れてきたからかなとみている。
2020年4月7日に7都府県を対象とした1度目の緊急事態宣言が発令されたとき、恐ろしいほどの自粛効果があった。個人的には若干怖いと思ったくらいだ。それほどの統制力と実行力があった。
それはなぜだろうか。
もちろん、コロナウイルスへの未知の恐怖感が先頭にあっただろうが、それ以上に「この緊急事態さえ凌げば、山は越えられるに違いない」という期待感、ひいては「政府や知事の言うとおりにすれば(ある程度は)収まるだろう」という「性善説」な空気があったのではないかと思う。
しかし、何度も発出される中、そして十分な補償がなされない、あるいは若者には感染しづらい(少なくとも従来においては)、といったことを踏まえたときに、
「政府や知事の言うことがすべて『善』ではないのでは?」という考え方が少しずつ芽生えたのではなかろうか。
性善説の破綻と性善説なお願いの矛盾
政府と国民だって、知事とその都道府県に住む人々だって、1つの共同体という意味では組織と同じだ。
それが「性善説」で成り立たなくなってきたのだ。
一方で、発信をする側である政府や知事からの発信は常に「お願い」でしかなく、この「お願い」はつまりそれを聞く者たちに「性善説」を期待しているのだ。
この「性善説」が成り立たなくなってきている状況、に対して
「性善説」を基にした「お願い」を続けているわけで、
そりゃなかなか上手くいかんわなと思うのである。
ここで、「いや昨年はこれで聞いてくれてたじゃないか」というのは、
冷え切った夫婦関係の中で「若いころはこうだったじゃないか」というのと同じで、
恐ろしいほど響かないだろう。
極端な話、
「どうしてもオリンピックがやりたいんです!スポーツで皆さんを元気にするために!感染者が1日○○人以下になれば開催できるんです!なんとか協力お願いします!」くらい言えば変わる人は変わるんじゃないか。
あるいは
「これまでの休業補償の10倍の予算を取るので、なんとかこらえてください!」でもいいだろう。
もちろん、その予算は未来にかけて僕たち自身が負担をしていくわけだが、そういうことを含めて、発信するとか、そういうことをしないと変わらないんじゃないか。
おまけ~割りを食うのは子どもたち~
これは(言葉はすごく悪いが)マネジメントの反面教師としてはすごくいい題材で、イケてない上司ってこういう人だよね、って気もしていて、
僕自身も人をマネジメントする立場である以上、我がふり直せで取り組めることもあるなあと思う日ごろであるのと同時に、
一番理不尽にしわ寄せを食らっているのは学生や子供たちなのは間違いなくて、僕自身も含めて不甲斐ない大人たちでごめんよと思う日々だ。
彼らにとっての1年は僕たち大人の1年とは全く違う。
去年の僕も来年の僕も今の時期は同じようにこの時期用の仕事をしているわけだが、小学生や中学生といった子たちはこの1年で本来は色んな機会を得て成長するはずなのだ。
僕自身が「ゆとり世代」と言われて生きてきたように、まさか彼らが「コロナ世代」なんて言われる未来が来てしまわないだろうかと恐ろしくもある。
元の日常に、と0⇔100で語ろうとは思わない。30でも50でもいいから子どもたちの日常が戻ることを祈ってやまない。